フェルナンド・ボテロの力量


正月明けすぐ、思いがけない場所で遭遇したフェルナンド・ボテロのブロンズ像は、日本橋ニューカワイビルの銅像でした。

ボテロの力量は、やはり気になりました。早速、画集を地元図書館で借り、力量を紐解いてみました。要約をまとめます。

フェルナンド・ボテロ 
マリアナ・ハンシュタイン著作 Taschen 2007
Fernando Botero, Mariana Hanstein, 2007,Taschen
(本文内容も、翻訳も良く、わかりやすい一冊でした)

ボテロ生立ち

フェルナンド・ボテロ  1932〜 コロンビア・メデジン生まれ

コロンビア人のボテロは、12歳で闘牛士養成学校に通い、そこで初めて闘牛や風景を主題に、水彩画を描いた。日刊紙のイラストを描き、学費を賄う。20歳の2回目の展覧会で全作品が売れ、ヨーロッパ旅行の足がかりとなった。

20歳でヨーロッパに向かい、マドリード、パリ、そして、フィレンツェで古典技法を研究する。特に、ロベルト・ロンギのクアットロチェント(15世紀)のルネッサンス美術史に学び、その後、美術史家バーナード・ベレンソンに出会う。

 

”ボテロは礼儀正しい巨匠で、20世紀の芸術家の間ではまさに真摯である。”

「太った人物を描いているわけではない」

ふくよかな人体表現に目を奪われてしまうボテロ絵画でしたが、”ボテロが対象をふっくらと肉付きよく描くのは、古典美術の立体的な価値を愛する気持ちに通じている”のであり「私は太った人物を描いているわけではない」と述べています。

ボテロのモチーフのレパートリーは、幼い頃育った故郷メデジンの憧憬でもある。”その世界とそこに生きる人々、その風景、そしてその伝統の思い出から生まれている”が、メデジンは今では麻薬マフィアに取り仕切られ、極めて危険であるために、ボテロ自身でさえ訪れることができない。

”ボテロはまずヨーロッパで、そして後には米国で長年にわたる修業と遍歴の期間を経て、彼を著名にした芸術に到達することになる。”

 

ヨーロッパでの修業時代
・ヨーロッパ美術の伝統を手本

1952年コロンビアを出港したボテロは、スペインのバルセロナに到着したが、数日後、マドリードのアカデミアに入学手続きをとった。マドリードでは多くを学ぶことはなかったが、プラド美術館で過ごし、昔の巨匠たちの秘密を引き出そうとした。

マドリーとで2年を過ごし、50年代のヨーロッパで議論の余地なく芸術の都だったパリへ向い、数ヶ月過ごす。その頃また、フィレツェにも滞在し、そこで初めて、職人的技巧の知識を理論的基礎で補強した。

・ピエロ・デッラ・フレンチェスカを規範とする

”若き日のボテロに天啓を与えたのは、ピエロ・デッラ・フレンチェスカのアレッツォのフレスコ画だった。ピエロの作品の完全無欠な形、空間構成、完璧な色彩もまた、ボテロにとって絵画の規範となっている。”

”美的イメージの表現に関してはヨーロッパの偉大な美術の伝統を手本にした”

”ボレロほど美術館であらゆる時代の美術を研究したがかは同時代にはほとんどいない”

”ボテロは古典主義の画家たちが描いたものを全て描いている”

 

ボテロ 母と子 1988 ニューカワイビル日本橋 撮影:2019 岡田七歩美

 

4年足らずのヨーロッパ滞在中、巨匠たちの技巧を学び、芸術の精神的省考や哲学的次元に夢中で取り組み、フィレンツェで実を結んだ。しかし、自分自身の作品のための美的方針は、まだ明確にはなっていなかった。

「若者は何でも組み合わせたがる。私もそうだった。マティスの色彩、ピカソの構成、ファン・ゴッホの絵筆のタッチを欲しがった。」

後に彼の作品の基本方針となる探求がこの頃に、模索が始まったのである。”それは、本質的に、一般的傾向とは逆に、古典的でもあり同時代の表現でもあるべき具象美術をめぐって行われた。”

 

・本の流れ
本は、ヨーロッパでの修業時代に続き、メキシコ、ニューヨークの挑戦、太った人物を描く形式原理としてのデフォルメ、芸術家のアトリエ、主題としてのラテンアメリカと続き、彫刻家ボテロでまとめられている。

ボテロは言う。

”色彩は本質的なものである”

”人は構成のことを考えるが、絵を決定しているは実は色彩である”

”それぞれの要素が自らの場所を見つければ、そこに平和が生まれる”

 

”ボテロの分析は少しも田舎じみてはいない。彼は自分の絵画で重要なことは特定のメッセージではなく、構成を決める線だと述べている。”

”美のイメージに関して、彼が気にかけているのは汚点がないことである。従って、彼の絵には影がない。”

「最初の爆発的行為の後の省察段階」

壁に固定したカンヴァスで描くため、作品のサイズは最後まで自由であり、最終的なサイズは最後に決まる。

 

”ボテロは具象的な絵を描くが、写実的な画家ではない。”

”彼にとって大切なことは、質感を変えたりデフォルメしたりすることによって、現実を芸術に変貌させることである。”

”ボテロの絵画は、60年代のニューヨークの環境と知的美術批評の世界では何よりもまずスキャンダルだった”

 

彫刻そして、コロンビア人であること

本書の最後に、彫刻家ボテロについて記述がある。経済的に安定した80年台に、フィレンツェ、ピエトラサンタに家とアトリエを購入した。ミケランジェロが大理石を切り出した大理石採掘場のある町だ。最高の鋳造所があり、ボテロが選んだ理由だ。ブロンズはボテロが大すきな彫刻素材で、イタリアで、200点以上の作品が制作された。

ボテロは、絵画の描画プロセスにおいても、完璧な職人芸への憧憬がある。それは、ラテンアメリカ出身であることと明らかに関係があり、美術作品の美しさを完全な制作方法と結びつけて考え、陶器のように滑らかな表面を愛するラテンアメリカの人々の無邪気な発想と合致している。

”彫刻は非常にさまざまな源泉から想を得て制作されている。そこには、初期アメリカ文化から生まれた、人間の形をした容器や石像はもとより、静かで重々しく、抽象化されたしなやかな形の初期エジプト美術の影響も確認できる。ボテロの彫刻からも、何か宗教儀式的なものが発散されているのである。”

”ボテロの作品は、多くの国に展示された。1999年には、フィレンツェのシニョーリ広場に、ミケランジェロや、チェッリーニ、ジャンボローニなどの作品と並べて展示された。今世紀の芸術家でこれほどの名誉に浴した者は、ボテロ以外にまずいない。”

”ボテロは常に、芸術家としての使命を祖国の人々に対する責任であると定義し、祖国の人々にとって何らかの意味のあるもの、アイデンティティーを与えるものを制作したいと願い、そして、常にコロンビアを描いた。”(要約)

 

引用元 フェルナンド・ボテロ マリアナ・ハンシュタイン Taschen 2007

以上、上記本より、まとまりの無い引用要約だが、私自身の中では、偉大なるボテロに関しての考察となった。日本の美術展時の流れに、ボテロという世界的に評価の高い画家が加えられるのを願おう。

平成31年始めに偶然出会ったボテロの彫像より、多くの事を学んだのであった。