平成元年〜平成5年(1989-1993)


Heisei Last 7 Days!

平成カウントダウン・残り7日

ドキドキします。

1989−2018 マイヒストリー 岡田七歩美の平成

なので突然、平成振り返りのアイデアが閃きました。

「平成」という言葉には、最後まで馴染みむことがなかった31年間。
ずーっと、違和感があった。

けれども、「平成のこり7日」ともなれば、過去の、日記・手帳、手元に残った資料を眺めたくなった。

思い出の品は、幼年期・高校・大学と、それぞれ一つのダンボールに、卒業証書とか、学生証とか、作文集とか、イラストとか、写真などがまとまっている。
大学の箱を引っ張り出して、ゴソゴソし、パッと目に入ったのが、多摩美術大学の卒業証書。手すき和紙の卒業証書には、「芸術学士と称することを認める」とある。平成元年3月23日多摩美術大学卒表 。私は、平成元年に大学を卒業したんだ。

なんか、しみじみとしてきて、そのまま、回想モードへ突入してしまった。
作品とか時間軸に並べるのではなくて、その年の大きな行事や、行動視点で、岡田七歩美ヒストリーを振り返ってみよう。「平成の31年」が、そうすれば、何かを私に語りかけてくれる”カモ” しれないと思った。

これは、自分のための整理行動で、老い支度とも言える領域だから、よければおつきあい下さい。

平成カウントダウン7日、平成31年4月23日の日記。


平成元年(1989)大学卒業

2年生の頃、海外へ行くことを夢見過ぎて、退学したいと親に申し出た時期があったけれども、ちゃんと卒業して良かったと、心から思う。神様ありがとう。いえ、当時のコーヒーショップ・アルバイト先の仲間が、「入りにくい大学なのだから、辞めないで最後までがんばりなよ」こう、言ってくれた。友だちに救われたんだ。

平成元年・1989 多摩美術大学卒業 岡田七歩美

 

平成2年(1990)
平成2年は午年でした。これ、年賀状。わたくしは、午年生まれです。
年賀状は、シルクスクリーンですね、町田の版画美術館で刷ったと思う。

大学時代は、グラフィックを学び、選択科目で版画、シルクスクリーンを制作していたんだ。シルクスクリーンは、高校からやっていて、馴染んだ表現だったしね。アンディ・ウォーホルもシルク表現だし。色が平面で構成的に扱えるから好きだった。

平成2年・1990 午年年賀状 岡田七歩美

 

平成2年(1990)・11月
多摩美術大学文化祭でのパフォーマンス。

巨大フラッグを、芸祭(多摩美の文化祭のこと)当日、校舎に突然掲げるというゲリラパフォーマンスでした。今では許されないでしょう。当時の多摩美はまだ、多方面でゆるい環境でした。だって、私たち、アーティストだし。芸祭では、オールナイトロックフェスが実施された時代です。

 

在学一年の時、わたくしは、競技スキー部に所属していました。水泳部かスキー部、いずれかと比べられる程、先輩・後輩の関係が厳しく、練習は毎日超ハードな部活で有名でした。美大なのに、100%体育会系の世界。費用もかかる部活は一年でリタイアしましたが、その関係は現在でも継続している。なんとなく馴染めなかった同じ科の同級生より、共通する気持ちが芽生えていたと思う。厳しくても、それだけ長い時間一緒に行動したから、絆も自然と深まったのだろう。

 

平成2年・1990 11月 マインドゲリラ 多摩美芸祭にて、スキー部OB・OGでパフォーマンスを計画実施

 

平成2年・1990 11月 マインドゲリラ 構内の階段や、目立つ場所に、シンボルのステッカーを貼るというパフォーマンス。多摩美芸祭にて、スキー部OB・OGでパフォーマンスを計画実施 制作に疲れ果て、転がって寝ているのが岡田七歩美

 

この時期、私は、若者特有のどん底でした。
こうしたアート活動に声をかけてもらい、多摩美スキー部の皆さんには、救われた。
個人的な闇ゾーンと、アート領域のゲリラゾーンとの間を夢うつつに交差していた気がします。

そのころの手帳は、自分の人生の勲章みたいにしがみついていた時期がありましたが、その後、処分しています。気持ちさっぱり昇華した。

 

 

仕事日記は残っているよ。

平成3年(1991)アパレルデビュー

当時、表参道の売り絵画廊で仕事をしていた。仕事帰りに立ち寄った原宿ビブレで、ある洋服と出会う。それが、ブティック顧客から、アパレル業界へ転職するきっかけとなるのでした。顧客であったショップ店長から、「あなた、ウチの服の販売やりなさい」と言われたのを間に受け、販売職は、一度は経験したいという気持ちもあって、転職しちゃいました。

 

高校卒業後、大学進学はせず、ファッションデザイナーになりたかった。ファッションが好きだったし、当時、高田賢三氏を始め、日本人で、世界の現場で活躍してるファッションデザイナーに憧れた。でも、高校3年の時、順当に大学受験した。

もともと、作家志向の私は、多摩美のグラフィックに進学したけれども、マスメディアという領域にあまり馴染めず悶々と4年を過ごす。
卒業後、アパレルには未練が残り、夜学に通おうと専門学校を尋ねたことがありました。

訪問先では、「デザイナーはもう遅い、あなたはグラフィック卒なのだから、ファッション工学をしなさい。」と言われ、スンナリ諦めました。だって、私の希望はファッションデザイナーだったから。ならば当時憧れだったジャンポールゴルチェへ弟子入りしたい!早速手紙を書こう。フランス語辞書と、エアメール便箋を買いました。

いざ、机に座って、手紙を書こうとした時、やっと、辞書では手紙が書けないことに気づくのでした。こちらも、その後、具体的な行動には結びつかず、小さな夢は、実現しないで想いで終わる事項。

 

反面、高校で影響を強く受けたイタリアへの思いは、確実なものに変化して行きます。語学の勉強を始め、少しづつ、準備を進めていました。

 

平成2、3年ごろ・出会いの一目惚れジャケット フランス人ミレーヌ・ドゥ・プレモンヴィルという女性デザイナーのブランド。写真左が自写。背景は、高校の卒業制作の前で。ナルシストな年頃、、。

 

平成3・4 1991−1992業務兼日記 仕事で覚えたことを中心にまとめたノート 販売職初めてで、一から全部教えてもらった。昨日までは優しいショップの店長が、入社した途端、別人のように厳しく教えて下さった日々が懐かしい。多くの新しい事を学んだ経験。

 

 

平成4年(1992)はじめて海外

平成4年、ニューヨークの旅。高校の友達が住んでいて、尋ねました。

ニューヨークに着くと、生まれて初めて、逆カルチャーショックを受けたのが鮮明な記憶。東京で生まれ育った私は、ニューヨークは、東京よりはるかに未来都市だと想像していたのに、目の前に開けた年は、古ぼけたレンガ造りの都市だったからです。

その時、「東京ってすごいなー。」胸に刻まれました。

 

平成4年・1992 年賀状 ニューヨークへは、この夏にフライト。人生第一の苦しい最中での出発でした。人種の坩堝ニューヨーカーの明るい笑顔に、生きる(生き返る)エネルギーをもらったんだ。

 

平成5年(1992)初個展

大学卒業後、留学実現だけを目の前にぶら下げて生きていた。闇雲に努力して、語学習得とお金をためていました。20代半ばは、辛い時期でした。そんな時、突然、銀座での個展話が浮上した。

きっかけは、覚えていなかったけれども、

手元には、その頃通った美術展記録のノートが1冊ある。

ノートを広げて気がついたのが、きっかけとなったであろう方の展示。
スキーのイラスト、スキー部先輩の展示でした。開催が、銀座フタバ画廊。その時に、私の個展話へと繋がったのだと思います。一竹辻が花展も、スキー部先輩つながり。

スキー部には、たくさん、お世話になったんだなぁ。そしていまもそれは続いてる。今年3月の「はむら・アート展」のご縁を育んで下さったのも、同じ方だわ!

 

 

平成4年・1992 美術展日記より

 

 

個展は費用がかかるので、悩みましたが、留学に貯めたお金を投資する事に決心しました。

絵もそれで、きっぱり辞める覚悟でした。

 

平成5年(1993) 個展「天使の愛」岡田七歩美

 

 

さよなら平成。残りもう、わずかです。
平成6年へ、引き継ぎます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。