荒川区ぬりえ美術館へ


荒川区町屋 ぬりえ美術館

ぬりえ美術館

行きたいと願う3年くらいの思いが実現し、ようやく足を運んだ美術館、荒川区町屋にある「ぬりえ美術館」です。JR西日暮里から千代田線で一駅、町屋からテクテク、路面電車沿いの道を下町風情楽しみながら15分。早稲田から伸びる路面電車は、かつての東京人の足だったと父は、いつも語ります。線路沿いにちょうど薔薇が咲き乱れていました。

「ぬりえ」は、美術家になった原体験そのものでした。

ぬりえ美術館 きいちぬりえ 表紙

 

ある時期、「ぬりえ」について少し掘り下げて考えたいと調べたことがあり、出会った本が、金子マサさんはじめ、共著による、ぬりえの不思議 ―心と体の発達に見るその力― でした。
第1章には、ぬりえ美術館館長金子マサさんが、”ルポジュタージュ日本のぬりえ・世界のぬりえ”を寄せておられます。ぬりえ美術館は、その時、知ったのだと思います。

ぬりえの不思議 ぎょうせい

ぬりえときせかえは原体験

私が物心ついたのは、自由が丘(世田谷区奥沢)に住んでいた時期です。5歳の幼稚園年長から、工作の強い記憶があります。当時母は、仕立ての内職をしていました。姉がいましたが、あまり仲良くありませんでしたので、ぬりえをよくしていました。それとも、理論派の姉とは違い、私は、感受性が強く内向的で、独りの時間が好きでした。

母方の祖母が目黒区・大岡山に住んでいました。すぐ近くに駄菓子屋さんがあって、そこで買ってもらったものが、ひょうたん型のような、変な形をした、つるさげるタイプのぬりえだったと思います。おばあちゃんが買ってくれたのか、母が選んだのかは、覚えていません。自由が丘まで帰る時、手に持って帰ったと思うのです。昭和40年代中頃、6〜8歳くらいの思い出です。

それが、きいちさんのぬりえかは定かではありませんが、きいち特有の、小鳥のついたサインや、ぬりえの中にデザイン配置された、おリボン飾りのあるタイトル枠はありました。着物や、お姫様の美しい絵柄も他とは違うと感じていました。

ぬりえは、他にも、当時たくさんしました。きいちにかぎらず、お姫様のものなど塗って遊んでいましたが、乗り物や、動物のぬりえではなく、圧倒的に、女の子のものが好きでした。

きいちぬりえ つりさげ型 ぬりえ 美術館

きいち生誕105年

ぬりえ美術館は、普段は、ぬりえ中心の展示物です。生誕105年の特別展示では、「きせかえ」も並べてありました。きせかえの箱を目にして、一気に幼年期の思いへフィードバックします。

きせかえも、本当によく遊びました。切り取って使ったのもあるし、自分でも真似て、たくさん作りました。
当時はまだ、白い紙が貴重だったので、広告の裏紙や、カレンダーを切り取った厚紙をもらうのが楽しみでした。でも、カレンダーの紙は強いけれども、ツルッとしていて、鉛筆とは相性が悪いのが、嫌でした。ペンも、絵の具も、家では使わなかったと思います。手軽に使える筆記用具は鉛筆でしたし、消せるし、鉛筆が好きでした。

近所に、少女漫画のとびきり上手なお姉さんがいて、絵をよくもらいました。それらは、今でも持っています。鉛筆の線がとてもきれいで、「どうしたら、こんなにきれいな線でかけるのだろう」と必死に真似ようと練習したのを覚えています。今思えば、当時出始めの、シャープペンシルの筆跡だったのだと思います。通っていたY小学校では、シャープペンシルは、小四から持ってきていいというような、取り決めがあったような気もしています?それとも、家の決め事だったでしょうか?

ぬりえも、鉛筆の筆跡に習い、一生懸命、きれいに塗る、塗り方を研究したと思います。黒い線で輪郭だけで示したぬりえの世界に、創造性を強く感じたのでしょう。絵本を読むより、はるかに、ぬりえで成長しました。小学校1、2年生の授業の記憶といえば、社会科で、白地図を塗ったことと、理科でしょうか。ドリルのようなものに、チューリップのぬりえがあって、色ぬりをしたことだけです。

白い紙にクッキリと線で描かれたチューリップ。

「色を塗る」という行為が記憶に刻まれたのです。

千代紙交換

当時の遊びは、ぬりえ、きせかえとならび、千代紙交換をしました。部屋いっぱいに千代紙を並べて、いろんな種類を多く持っている姉に、懇願したものです。千代紙交換は、友達ともよくしました。今で言えば、モンスターカード交換のような感じです。

きせかえ遊び ぬりえ美術館 きいち生誕105年

 

きせかえ遊び ぬりえ美術館 きいち生誕105年

 

きせかえ遊び ぬりえ美術館 きいち生誕105年

 

ぬりえ美術館 きいちのぬりえ

 

 

きせかえ遊び ぬりえ美術館 きいち生誕105年

 

ぬりえ美術館 パティオ(中庭)に向かうテーブルで、ぬりえを楽しめます。

 

ぬりえ記念日 令和一年五月十八日 岡田七歩美 こうして手を動かしてみると、当時は、もっと上手にぬれていたと思います。輪郭線を太くなぞり、中身を薄く塗ってトーンを使い分けていました。友達と一緒にぬりえをすると、みんなの塗り方が違うのも知って行きました。

小学校3年に上がる年に、東京の西へ引っ越しました。
それからは、ぬりえよりも、リカちゃん人形に多くの時間を割いたと思います。

自由が丘に住んでいた頃手軽に手に入った、愛らしいぬりえ 達に変わって、次第に、アニメの主人公がぬりえ モチーフに変化した頃ではないかと思います。ぬりえ に対する興味が薄れて行ったのでしょう。現実的な世界のに、自由な創造性が遊ばなくなったようにも思います。

人形遊びは大好きでした。
中学に上がっても、学校から帰ると、1時間くらい独りで人形遊びに熱中していました。今思えば、なれない学校生活の精神を、空想の世界で、安定させていたのでしょう。野外でも遊びましたが、独り遊びの世界が、私自身の創造性確保には、必要な時間だったのでしょう。

ぬりえは美術教育の敵

ぬりえ美術館の館長金子マサさんが、ぬりえ文化の本を書いたのには、ぬりえの専門資料がどこにもないという理由でした。ぬりえ文化では、ぬりえの資料はないのに、ぬりえの批評論文はあると展開します。

<美術教育は、自由解放へのさきがけであった。><ぬり絵を子供に課そうとする心理も同じことである。子供がぬり絵を求めるがゆえに与えるのでなしに、自由に子供に描かせていただけでは不安でたまらぬ大人が、枠を設けてそれに子供をはめ込もうとするものである><ぬり絵ばかりさせると、子供は与えられた形によって色ぬりするだけで、絵が出来上がるのをおもしろがるようになってくる。その結果は、自分で工夫して描く自由画よりも楽でいいと考えられるようになってくる>(一部引用 「児童心理」1953年6月号金子書房 ぬりえ文化より)

 

日本の美術大学の流れは、絵師として職人芸を磨く流れが根底にあり、やがて、自由解放へと向かいました。美術教育も、創成期には、自由解放思想でよかったものも、受験生が増えると自然、受験テクニックが必要となってきます。
自由思想と、技法がヘンテコにミックスした土壌が、アンバランスに育まれてしまったのも、美大の特徴とも言えるのではないでしょうか。
美術の勉強には、本来、美術史への理解も重要視されるはずなのに、日本では、自由表現が、ひとり歩きしていると感じる事も度々でした。

その後、イタリアとドイツで美術教育を受けてみると、美術に対する立ち位置そのものが違いました。

 

ぬりえ文化 金子マサ・山本紀久雄 小学館スクエア
ぬりえ美術館

すっかり夢中になった「ぬりえ美術館」退館時間迫ること、館長の金子マサさんと思う女性と、話す時間にも恵まれました。

「楽しかったですよね。」ぬりえ への思い、話が尽きませんでした。
「楽しかった」少女の心を共有するぬりえ 美術館の場。
遠くからもお客様が運ぶようで、私が行った時は、静岡からのご夫妻がいらしていました。

いつの時代にも、その時最適の遊びが子どもにはあるのでしょう。

ぬりえ美術館訪問は、私に、「ぬりえ」と、「きせかえ」が、絵本の物語よりもはるかに大きな創造性を育てる原体験であったのを、再認識させてくれる時間でした。

皆さんの、原体験は、何でしたか?

ぬりえ美術館 撮影コーナー

美術館内は、撮影OKです。
何枚か、スナップを撮らせてもらいました。著作権があるので、写真は斜めから撮ったものや、小サイズでご紹介しています。